《道端のタンポポを「可愛いな」と感じられたなら、ココロがちょっと豊かになったしるし。ささやかな事に喜べるなら、それはすでに「ついている人」。日常の中で、ささやかな幸せに気づいていこう。》
休日、目覚ましをかけずにのんびり起きて、窓から差し込む陽の光とそよ風に揺れるカーテンを見ると、いい目覚めだな。と思う。
疲れた疲れた、さぁ寝るか、とベッドに入る瞬間も好きだ。フリース素材のタオルケットをふわっと身体にかけて、ベッドに身体がいい感じで収まると、これもまた私にとっての至福の時だ。
このベッドに入る姿を想像するだけで、にやけている自分に気づく( ´∀`)
私は最近、大切な人を失った。
もう二度と会うことはできない。
一時的なものかもしれないが、自分周辺の人間関係が変化することに、敏感に反応するようになってしまった。
🔲店舗に勤める仲間が退職したり遠方に転勤になるだけで、「旅立ち」を祝福するよりも悲しい気持ちになってしまう。
🔲子供たちが成長し、大学進学や就職のために、家を出ると想像するだけで淋しい。
🔲卒業もあれば入学もあり、入社、退職など、環境が変わる時期を慌ただしく感じて落ち着かない。
いちいちそれに反応していては、疲弊してしまうのだが。
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ストレスを数値で表したものを抜粋すると
「配偶者や恋人の死」「親族の死」「親しい友人の死」が、上位にある。
「家族の病気」「身内の暴力」が次にきて
「自分の病気」「過労」「失業」「借金」「食習慣の変化」など、自分に関係するものが出てくる。
細かく見ても「職場」「恋人」「ご近所」「親戚」と、人に関わる事柄でストレスにやられることが多いようだ。
また、
「クリスマス」「正月」「長期休暇」など、楽しいと思われる一大イベントでもストレスになりうるらしい。恋人や家族がいれば「何をしよう」「準備が大変だ」と悩むこともあるだろうし、独りでいれば、イベントに浮かれている世間を疎ましく思うだろう。
このように考えていくと、どんどんストレスの罠にはまっていってしまう。
嫌なことのループにはまって「自分はなんて惨めなんだ」「どうせ私なんて」と、卑屈になって立ち直れない自分にはまっていく。
まさに、今の自分がそうなのだ。
「大切な人を失った」から「人間関係の変化に敏感だ、怖い」と。
こう思っていることが悪いわけではない。
正直な本音の気持ちに蓋をすることもないし、「卑屈だ」「悪だ」と攻めることもない。
ただ、最近の自分のような状態になったとき、
「道端のタンポポが可愛いな」
「今夜は星がきれいだ」
「カフェの新作をゲットした」
といった、日常のささやかな幸せを感じることができれば、もの悲しい気持ちを忘れたりココロ豊かに過ごすことができると思う。そうやってささやかな幸せを感じることができるなら、まさに「ついている」といえるだろう。
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「すべては時間が解決する」
と、よく言われるが、そこには、ささやかな幸せを見つけて気持ちを切り替えていく自分自身の逞しさがあってこそと思う。
どんな人も、どんなつらい時でも、ささやかな幸せを見つけたり感じたり、美味しい食べ物の匂いを感じたりして、つらさを忘れる一瞬があると思う。
自分を大切に、ココロ豊かに過ごすのに、大した事業は必要ない。
道端のかわいいタンポポやきれいな星、カフェの新作にちょっとした幸せを感じることができるなら、幸せの数が増えていく。
感じる幸せも多い方がいい。
そう思えるなら、あなたも既に「ついている人」だ。