《出来ることがたくさんあるのに、面倒くさいから「難しい」と口にして言葉で難しさを現実のものにしています。一つ一つは簡単なことばかり。焦らなければなんだってできるのです。》
年配の同僚に、とても話の長い方がいる。
仕事のことで不明な箇所を確認しようと呼び掛けると、「前にいた職場ではね、…~」「それは○○なんだけど、本来なら□□~△✕○…」など、そこから10分、20分と話を盛って自分の話をし始める方がいる。時計にちらりと目をやっても、「わかりました」と言って自分の席に戻ろうとしても話を止めない。
勤務中、不明な箇所を確認するためのやり取りを例にあげると
「どうなってますか?」
「こうなってます。」もしくは、「ちょっと待ってください、えーと、…あぁ、こうですね」もしくは「今すぐ回答できないので、確認してから後でお伝えします。」
「わかりました、ありがとうございます。」
というスムーズな流れが一般的のような気もするが、その方とのやり取りがこんな風にスムーズに終わることはない。ほぼない。
「こうなってるけど、違うと思うんだよね~、前にいた職場ではね、…~」が、始まってしまうのだ。
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「前にいた職場ではね、…~」が出ると、やっちまった!!と思ってしまう。
その方が長い話をしたくなるきっかけを与えてしまったことに「やっちまった」と思うのだ。周囲の人もそれをわかっているから、絶対話にのってこない。むしろ、長い話の途中に自分が仕事の話で割って入ったものだから、長い話から解放されてラッキーと思っているくらいだ。
その方、何年も同じ業務に携わっているので、その分野においては詳しいし、頼りになる。ただ、話が長い。そして話の内容が自分自身の話が5割、自虐的に話をしても全体で見れば自慢話、それに加えて他人の悪口が5割、とてもじゃないが楽しい話とは言えない。仕事中、あれだけ話をしておいて「今日は忙しくて何も進んでない」「今月末期限なんて絶対無理」などと平気でため息をつく。さらに、自分の仕事が1番面倒で難しいと思っているのだ。
誰にでも面倒な仕事はあるし、難しい仕事もたくさんある。
「あれは面倒だ」「難しくてやってられん」と仲間内でワイワイするのは問題ないけれど、大っぴらに「面倒くさい」「難しい」などと宣言する社会人は、あまりいないように感じる。もし宣言してしまったら「そういう事は誰もいない時に言いなさい」と笑われてしまうだろう。
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自分の基本的な考えとして、仕事をきちんとやる人であれば、どんな人が会社にいても構わないと思っている。
この「話の長い同僚」も然り、仕事をきちんとする方であれば、会社の同僚としては何も問題はないと思っていた。
もし、あれだけ無駄話をしておいて仕事が完璧だったら
「いつ仕事してるんだろう?さばけるな、すげぇ」
となるし、悪口を言ってもその人の仕事をフォローするなど、仕事に対してストイックであれば全然問題ない。むしろそれならそれで格好いい。
でも、この方は違う。「面倒」「難しい」「忙しい」と言って、仕事をやらない人だったのだ。
ある日その話の長い同僚が、
営業先の担当者のことを「あの人の話は長いんだよね」と言っていた。さらに「できない理由を探して面倒とか忙しいとばかり言っているよー。」とも言った。
それを聞いた時は耳を疑った。自分もそう思われているとは1ミリたりとも自覚してないのだろう。この話の長い年配の同僚は、人生の先輩年代でもあり、細かいことをいちいち注意される年頃でもない。
年配者だからと若い人たちに気を使われ、残念だと思われている部分に気づくことなく残念な部分を一生変える事ができないかもしれないと思うと、なんだか少々不憫に思ってしまった。
なぜこの話の長い年配の同僚が干されないかというと、
卑屈な自分は「人事の業務に携わる人だからだ」と思っている。他の人たちは機嫌を損ねるとクビになる、いい役職から外される、とビビっているに違いない、だから干したりしないんだ、と、割と本気で思っていたのだが、「定年も近い年配者だし、まぁいっか」と思って接しているココロ豊かな同僚が多い事にも気づいた。その方がやらない仕事を軽いフットワークで取りかかり、一つ一つ出来ることを見つけて処理しているのだろう。仕事の肩代わりの他に、このつまらない、面白くない・・・長い話をいつもなんとなく聞いている他の同僚の優しさとココロの豊かさを見習いたい、と思う。
出来ることがたくさんあるのに、面倒くさいから「難しい」と口にして言葉で難しさを現実のものにしています。一つ一つは簡単なことばかり。焦らなければなんだってできるのです。
豊かなココロで。