《何でも言いたい事を言える強さより、余計な事を言わないよう我慢する事の方が、よっぽど大切。》
明るく元気いっぱいな人に「少し大人しくしなさい」と言って聞かせるより、静かで大人しい人に「もっと元気に振る舞いなさい」と言ってそうさせる方が難しいという。
スポーツの監督をされている方が
「攻める気のある奴にちょっと待て!と言うより、慎重な奴にどんどん攻めろって言う方が難しいんですよね。」
と言っていた。
言葉の綾と言うかもしれないが
要求する側は
●抑える方には「少し」「ちょっと」と穏やかな要求なのに対し、
●開放する方には「もっと」「どんどん」と言って過大な要求を迫る。
要求した側としては「少し」と「もっと」では、それぞれ結果に対する満足度は違うだろうし、要求された側も「少し」がんばれば認めてくれるのと、「もっと」がんばらないと認めてくれないのでは、不公平感がある。
出た。
世の中の「矛盾」と「不公平」が。
🔲言いたいことを言える人からすると「言わずに我慢すること」には労力がいる。
🔲言いたいことを言えない人からすると「言って伝えること」には労力がいる。
▲「できる人」はさらに難しいことを要求されるけど、
▲「できない人」はちょっとやっただけで評価される。
「矛盾」「不公平」のほか、それらに耐えうる
「我慢」も必要なのか。
この世には、弱気者、はかない者に対するエールはたくさんあるが、強く自立している者に対するエールはほぼない。ゼロではないにしても、限りなくゼロに近い。
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人と関わってきた中で、我慢を多く経験してきた人には「デキる人」が多いように感じる。
◆デキるからといって知識や技術をひけらかすことなく、未熟な者の失敗を修正したり、後輩の育成に励む。
◆もっと速く走れるのに、遅い人のために振り返って足並みを揃え、背中を押す。
◆自分正面の報告書は完成しているのに、未完成の人の手助けをする。それによって帰る時間は遅くなるし、仕事量は1,5倍。
「デキる人」
がこういった援助を「我慢」ではなく「当たり前」と捉えているかもしれないし、「我慢」というそんな発想もないかもしれない。起きた事実や置かれた現実を冷静に把握し、自分には何ができるか、どうしたらよい方向に向かうか。そこに自分の利益や評価など、「デキる人」にとっちゃ重要ではないのかもしれない。
さらに
「言いたい事を我慢」する一瞬はあるにせよ、「どうやったら相手に伝わるか」と思考を変化させることもできるのだろう。言いたい事があるのにただ「我慢」して言わずにいれば、何も伝わらないし解決しない。建設的な言葉で伝えられるよう、努力しているのだと思う。
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幼少の頃通った歯医者は、私の奥歯をキンキン削りながら「我慢しようね」を連発していた。
「いや、いてーよ!」
と、よく泣いた。
今の歯医者は「痛かったら我慢しないで手を挙げてくださいねー」と、我慢させずに、痛くない方法で治療を進めてくれる。
「我慢」
と聞くと、あのヤブ医者を思い出して辛くなる。
○我慢の継続は体に良くない。
○ココロにも良くない。
色々な場面で一瞬我慢する事はあろうが、その先は思考や要領を変えたり、思いきって環境を変えることで、物事を建設的に解決することができる。自分の思考1つで、「我慢」を「共感」に変え、物事を発展させることができるのだ。
物や情報が溢れるこの時代、「我慢」や「忍耐」を強いる精神論だけが美しいのではない。考え方や伝え方、できる事とできない事、それら色々な材料を柔軟に混ぜ合わせて判断しながら