豊かなココロと卑屈な気持ち ~麗生🖤leopeolily

「ココロが豊かになる言葉」を解釈してみました。言葉1つ、考え方1つで癒されます。ココロ豊かに過ごしましょう。

スポンサーリンク

見たまま「事実」と嘘かもしれない「嘘」にだまされること。 ~麗生🖤




「言葉1つ」「考え方1つ」でココロ豊かに過ごしましょう。

少し卑屈でごめんなさい_(_^_)_





スポンサーリンク

《「事実」とは、自分自身で見て確かめるもの。見ることができないなら、事実と虚偽を見分ける知識が必要。与えられる情報が事実とは限らない。》

嘘に騙されず、事実を見てください。~麗生(れお)
事実と虚偽


 見ていないものは信じないし、
「電気」や「幽霊」は見えないので信じない。

電気系統の物が壊れて困っていたら
「なんだ、配線図あるじゃないですか」
と言って原因を究明し、悪い部分を修理して使用可能にした方がいる。
配線図があると、電気が見えると言ってニコニコしていた。

 

① 「1人で淋しそうに歩いていた。」

② 「楽しそうに料理をしている。」

③ 「悲しそうに黄色の花を摘んでいた。」

①の場合
 「1人で歩いていた」のが事実だとしても「淋しそう」なのかどうかはわからない。

②の場合
 「料理をしている」のが事実でも、「楽しそう」かどうかはわからない。

③の場合
 「花を摘んでいた」のが事実だとしても「悲しそう」かどうかはわからないし、花の色が「黄色」だったかどうかもわからない。


 「主語」「動詞」が事実だとしても、話し手の主観が入る「形容詞」の部分は、実際その場で見てないと、なんとも表現できない。

たとえ、その場でその状況を見ていたとしても


①は「おなかが痛くてつらかった」
②は「別にいつもどおり作っていた」
だけかもしれないし
③は「花粉症でくしゃみが出そうだった」のかもしれない。

 電気が見えると言って「ニコニコしていた」方も、実際は「そんなこともわからないのか」と「呆れた失笑」をしていたのかもしれない。

見ていたとしても、本人に聞いてみたらこちらが受けとる事実と違うことだってある。

 

人が取り入れる情報は「視覚」からが8~9割。

「百聞は一見にしかず」

100回聞くより1回見りゃわかるでしょ、というもの。

「見る」ことは事実を認識するのに大切な行為であることは間違いない。

 

両方の言い分がどちらも事実というこんな事もある。

 
待ち合わせ場所に時間通りに行ったのに、相手が来なかった、というもの。

 両方が「時間通り待ち合わせ場所に行った」というのが事実としても、どちらか一方若しくは両方が待ち合わせ場所を間違っていたら、会えるわけがないのだ。

事実と虚偽を見分ける知識が必要

 
とは、かなり専門的なことを言ってるように感じるが、嘘や話し手の主観に惑わされないように判断するためには、それ相応の知識を持つことは必要だと思う。


逆に、普段の会話の中で人と話している時、

「ちがう」
「嘘つくなよ」
「それはない」

などと否定的な言葉を返すよりも

「そうか」

「本当なら驚きだ」

「そうともとれる」

など、肯定的な言葉を返す方が楽しいひとときを過ごせるのではないか。


 完璧な事実の証明が必要な事案が発生したら、感情や主観を抜きにして、淡々と証拠を集めていけばいい。

それ以外、普段の何気ない会話で「事実」のみを追求することはそれほど意味がないことにも感じる。

「嘘」とわかっていても

「あぁそうなんだ」

騙されたフリをするのも1つ。


「これくらいの嘘ならまぁいいでしょう。」

と思える余裕を持ちたい。
そうすると、ココロ豊かに過ごせそうな気がする。