《「事実」とは、自分自身で見て確かめるもの。見ることができないなら、事実と虚偽を見分ける知識が必要。与えられる情報が事実とは限らない。》
見ていないものは信じないし、
「電気」や「幽霊」は見えないので信じない。
電気系統の物が壊れて困っていたら
「なんだ、配線図あるじゃないですか」
と言って原因を究明し、悪い部分を修理して使用可能にした方がいる。配線図があると、電気が見えると言ってニコニコしていた。素晴らしい能力だ。
① 「1人で淋しそうに歩いていた。」
② 「楽しそうに料理をしている。」
③ 「悲しそうに黄色の花を摘んでいた。」
①の場合
「1人で歩いていた」のが事実だとしても、寒かったのかもしれないし、どこか痛かったのかもしれないし、鼻がムズムズしていたもかもしれない。淋しかったかどうかはわからない。
②の場合
「料理をしている」のが事実だとしても、テレビを見て笑っただけかもしれないし、思い出し笑いしただけかもしれないし、いつも通り作っていただけかもしれない。「楽しそう」かどうかはわからない。
③の場合
「花を摘んでいた」のが事実だとしても、花粉症でくしゃみが出そうだったのかもしれないし、「悲しそう」かどうかはわからないし、花の色が「黄色」だったかどうかもわからない。
「主語」「動詞」が事実だとしても、話し手の主観が入る「形容詞」の部分は、実際その場で見てないと、なんとも表現できない。
電気が見えると言って「ニコニコしていた」方も、実際は「そんなこともわからないのか」と「呆れた失笑」をしていたのかもしれない。
見ていたとしても、本人に聞いてみたらこちらが受けとる事実と違うことだってある。
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人が取り入れる情報は「視覚」からが8~9割。
「百聞は一見にしかず」
100回聞くより1回見りゃわかるでしょ、というもの。
「見る」ことは事実を認識するのに大切な行為であることは間違いない。
事実と虚偽を見分ける知識が必要
嘘や話し手の主観に惑わされないように判断するためには、それ相応の知識を持つことは必要だと思う。
でも、普段の会話の中で人と話している時、
「ちがう」
「嘘つくなよ」
「それはない」
などと否定的な言葉を返すよりも
「そうか」
「本当なら驚きだ」
「そうともとれる」
など、肯定的な言葉を返す方が楽しいひとときを過ごせるのではないかな。
完璧な事実の証明が必要な事案が発生したら、感情や主観を抜きにして、淡々と証拠を集めていけばいい。それ以外、普段の何気ない会話で「事実」のみを追求することはそれほど意味がないことにも感じる。
「嘘」とわかっていても
「あぁそうなんだ」
と騙されたフリをするのも1つ。
「これくらいの嘘ならまぁいいでしょう。」
と思える余裕を持ちたい。ココロ豊かに過ごせそうだ。
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