《人の話を聞くとき、たいてい頭を使って聞いている。相手の話を聞きながら、「何と言って返そうか」考えている。そうすると相手の話を聞けなくなってしまう。頭で聞くのではなく、ココロで聴くことを意識してみよう。相手の話を理解できるようになる。》
人が気安く自分に相談してくることなどほとんどない。
自分、大勢でワイワイするのはなるべく避けたい方で、できることなら1人でのんびり過ごしたい。数人で「飲みに行こう」など誘われた時でも、そんな気分でなければ断る。
「仕事も一区切りついたし、君も一杯行かないか?」
と誘われても、一区切りついた人だけ行けばいいと思うから、少人数で行く小さなグループの誘いでも普通に断る。最初のうちは、誘う方に気を使わせてしまうが、2~3回そういうことがあるとお互い慣れてくる。
もともと仕事以外で自分について詮索されるのは苦手だ。
人のプライベートを知りたいからと飲みに誘う人もいるが、迷惑な話だ。たいした長い付き合いでもなく、長く付き合うこともない人にあれこれ聞かれたあげく「あなたはこういう人」「そういうこと言いそうだ」とちょっとした話の展開でわかった風に決めつけられるのもなんだか面白くない。
若い頃はこんなじゃなかった、
もっと元気に騒いでいた、という人も少なからずいるだろうが、自分もそういう元気だった人の1人である。暇と金さえあれば酒を飲み、先輩後輩問わず夜の町へと引きずり回し、自分がどこにいようが「お前も出て来いよ」と誘われればホイホイ出て行った。
アルコール検査で
「酒はあんまり強くない体質です判定」
が出ても、みんなから「検査の不正をするな」だの「検査キットが壊れてるんだろ」などと笑われるほど、自分は自他とも認める酒好き、人好き、大騒ぎ大好き人間だった。
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人間勢いのある時は「何でもできるし自分が正しい」ような気分になる。
自分がそんな感じでイケイケゴーゴー(※死語=調子にのっている様)だった時、「自分さえ良ければいい」「楽しければいい」と思っていたし、何かに悩んでいる人を見ても「なんでそんなしょーもないこと考えてんだよ、わけわかんねー」と自分の視界に入れることさえしなかった。たとえ親しい友人が悩みを抱えていたとしても自分の強い意見を押し付けて、常に上から目線で「悩む時間がもったいない」と攻撃的な物言いをし、自分は楽しいことだけに気を向けていた。どこでも誰に対してもそんな感じだったから、誰からも信用されないことはもちろん、自分も誰かを信用するなんてことはなかった。
そんな自分がどうしてこんな風に「1人が好き」「人とワイワイするのは苦手」「飲みの誘いを断る」「詮索されるのが嫌だ」という考えになったんだろう。
・・・
実はよくわからない。
これがこうだったからこうなった、と断言できるものはない。
ないけれど
自分にとって守りたい人ができたからその人に迷惑がかからないよう自制した、という美しい理由もあるような気もするし、自分の意見をゴリ押しすることに快感を感じられなくなった、というのもある。大した人生経験のない若造が、薄っぺらな意見を大声で吠えたところで賛同してくれる人などいるわけがない。面白おかしく笑って賛同してくれるのは、飲み屋の店員くらいだろう。
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そういえば当時、
飲み屋の店員は自分のアホな話を聞いてくれた。飲み屋の店員は接客が仕事だから客である自分の話を聞くのは当たり前といえばそうなのだが。
入院先の看護師もそうだった。
よく話を聞いてくれた。
入院理由は骨折、「骨付きが悪くなる」という理由で半ば強引に禁煙を強いられたのだが、暇な自分は結局喫煙所に入り浸っていた。少々やさぐれた自分の話相手になってくれたのがその時の看護師だ。
飲み屋の店員も入院先の看護師も、
話のプロだったりココロのケアができる専門職だったりするから、どんな人相手でも上手く話をすることができるのだろう。話をする、というより、「話を聴くことができる」と表現した方が正しいのかもしれない。
アホな武勇伝や薄っぺらなポリシーを意気揚々と話す自分に対し、否定することなく「うんうん」と受け入れて聞いてくれた。
「こうした方がいいんじゃない?」とか
「自分の考えは○○だから△△するべきと思う」
など言われた記憶がない。
飲み屋の店員も入院先の看護師も、
こんな薄っぺらな話に対して「何と言って返そうか」などと考えていなかったはずだ。自分の話を肯定することもなく否定することもなく聞いてくれた。もしかしたら聞き流されていただけかもしれないが、なんとなく自分で自分のことを「薄っぺらい奴」と自覚し始めていたから、話を聞いてくれるだけでダメな自分を受け入れてくれると感じ、ただ単純に嬉しかったんだと思う。
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人生の途中で話を聞いてくれる人に出会うということは、自分を知るきっかけになる。
言葉を発するとその言葉は自分の耳に入り、自分が発した言葉だろうが、他人が発した言葉だろうが、自分の頭の中では同じ言葉として認識する。自分は自分についてどう思ってるのか、どうしたいのか、今どういう状況なのか、話をしながら自分で自分を理解していくのだ。
人の話を聞くとき、たいてい頭を使って聞いている。相手の話を聞きながら、「何と言って返そうか」考えている。そうすると相手の話を聞けなくなってしまう。頭で聞くのではなく、ココロで聴くことを意識してみよう。相手の話を理解できるようになる。
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なぜ自分が今、1人でいることを好むのか、
昔あんなに大勢で騒ぐことに快感を感じていたのに。
アホな武勇伝や薄っぺらなポリシーしかなかった時代から、
自分の経験や実績を重ねることによって今の自分がレベルアップした、だからわざわざ自分が強いんだとめんどくさいアピールをしなくても十分やっていける、と自覚したのも理由の1つ。
そして、
出会った人の中に、若しくはこれから出会う人の中に、自分の話を「ココロで聴いてくれる人」がいるかもしれない。もし、そんな人と出会ってしまったら、自分のココロが丸裸にされてしまいそうで怖い。一度そうなったらその人にどっぷり依存してしまうのではないかと想像して怖い。そんな人に会って自分が丸裸にされるくらいなら1人でいる方がずっとマシと、思う気持ちも理由の1つかもしれない。
「1人で過ごすのがいい」とか言いながら、他人に自分のココロを丸裸にされるのが怖いだけなのかな。
実はココロの奥底では理解し合える相手を求めている、なんて事になっても気持ち悪いしめんどくさい。自分は自分の感情が揺さぶられるのが嫌だから、人の感情に寄り添うことも苦手だ。飲み屋の店員や入院先の看護師から、暖かく、豊かなココロで接してくれたことをしっかり覚えているし、薄っぺらな自分を受け入れてくれたことが心底嬉しかったのに、あれから何年もたち、自分もそれなりの大人になっているとしても、自分がその立場になるというのはやっぱり苦手なのだ。
「自分さえ良ければいい」「楽しければいい」と思って人の感情をないがしろにしたツケがここに来てるのか、と卑屈に思っていたりもする。
人のココロは難しい。
人のココロを理解しようなんて、おこがましい。
さて、これからどんな人付き合いをしていこうかな。
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