《涙はどんな苦しみも悲しみも払拭してくれる。涙を流すとココロが晴れてくる。感情は形にすると解消される。涙はもっとも純粋で高貴な浄化である。》
涙はもっとも純粋で…のフリ。
小学生のころ祖母が亡くなった。学校で授業を受けている最中、神妙な顔した先生に呼ばれて廊下に出ると、祖母の事を知らない先生が悲しそうにしている。「すぐ祖母のところへ行くから帰って来るように」と母からの伝言を先生が伝えに来たのだ。祖母に会うのは年に1~2回程度、それほど面識はなかったので自分はいまいちピンとこなかったのだが、学校側からすると、授業の途中にもかかわらず帰宅を促されるほど祖母と自分の関係が親密だったであろう、自分はおばあちゃん子だったのだろうと想像される。祖母が亡くなった事を伝えたら、自分が悲しむに違いない、事実を伝えに来た先生はそう思っていたと思う。先生が悲しそうにしている姿を見て、自分はなんだか泣かないといけないような気がして咄嗟に泣いて涙を拭い、顔を伏せた記憶がある。
私は、泣いた翌日には目が腫れる。尋常じゃないほど腫れる。「涙はもっとも純粋で…」なんて考えたこともなくて、どちらかというと
「泣く人」 = 「弱者」
と思っていた。悲しくても悔しくても、いつも涙をこらえようと我慢していたから、人前で大泣きする人を、好奇と羞恥の目で見るくらいだった。
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純粋で高貴な浄化
そんな私にも、立っていられないほどわなわなと崩れ落ちるような衝撃を受けたことがある。その衝撃を口走りながら涙を流し、嗚咽から号泣へと感情をあらわにした。感情豊かな外国の方が「オーマイガー!!」と叫びながら失神する様子を演技だと疑わなかった自分が、衝撃のあまり立っていられず、傍にいた人に抱きかかえられるほどの状態になったのだ。
目が腫れて翌日の接客が…などという考えは一切なく、とにかく泣いた。普段沸かない悲しみの感情と、泣くという不慣れな行為に支配されて、その日はぐったり疲れて早々に眠ってしまった。
あまりに泣いたので、翌日目が腫れたら会社を休もうと思っていたのに、朝起きて鏡を見ると、それほど顔面変化もなく、普通に出勤できた。
あとから知ったことだが、泣いて目が腫れるのは、涙を拭おうと目を擦ることは勿論、涙をこらえようと我慢することも要因の1つだそう。
泣く行為が「高貴な浄化」だと
知っていようがそうでなかろうが、あの時ぎゃんぎゃん泣いた割に気分は最悪、重苦しい気持ちで朝を迎えた。とはいえ、ちょっと疲れた会社員と思われるだろうが、見た目は大して問題なく出勤し、普段どおり仕事をし、食事もとれている。
この事実、
自分の図太い性格もあろうが、純粋で高貴な涙が自分の衝撃を浄化してくれていたのは間違いないだろう。もし、衝撃と思うほどの悲しい感情を、外に出すことなく自分の中に閉じ込めようとしたら、自分はそれを処理できずに精神的に参ってしまったかもしれない。
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その時に起きたつらい出来事は事実として消えることはないけれど、それをどう受け止めて対処していくかは自分自身。
その対処の始まりとして泣く行為、「涙」は辛い出来事を浄化して、冷静さを取り戻す大切な役割を果たしていると思う。自分の沸き起こる純粋な感情に促されてあふれた純粋な涙。気分が最悪であっても、ぎゃん泣きした翌日、通常通り行動できたということは、泣くことに否定的な自分にとって、涙はもっとも純粋で高貴な浄化だったといえる。
あの衝撃の一件以降、状況が改善しなくとも、
私は一切涙を流していない。やはり泣く行為には抵抗がある。でも不思議なことに、大泣きする夢を見るようになった。
泣いた様子が生々しく、「またか」と思って目を覚ますものの、割と気分がいい。
大泣きする夢を見ると、小学生の時にやった「ウソ泣き」を思い出す。空気を読むことは大事だが、あの時に限ってなんであんなことをしたのかと、自分を笑う。