《誰かを助けるとき、相手の力を奪うような助け方をしてしまうことがあります。こういう助け方はあまり良くありません。自立の芽を摘み、依存させてしまうからです。本当に助けたいのなら、相手に力を与えるような助け方をする必要があります。本当の優しさとは、いつでも手を差しのべることではないのです。》
大規模な災害が発生したとき、被災地で支援をしたことがある。
がれきの除去、食事や日用品の提供、お風呂などの生活に関わるお手伝いである。
被災直後に速報が流れ、間もなくメディアから被災の瞬間映像が次から次へと配信され、火災や津波が発生する状況を目の当たりにした時、関係者ではない僕もかなりの衝撃を受けた。
被災して間もない時期に支援しようと現地入りしても、被災の全体状況がわからないから、どこでどのようなお手伝いをしたらいいのか、どこへ向かえばいいのかわからない。そんな状況が数日間続いて混乱していると、自衛隊、消防や警察などの大きな組織が自治体と調整をはかりながら支援を開始していく。ボランティアや個人的な支援者など、多くの助けが色々な分野でそれぞれの地域に派遣されるようになり、支援の流通が軌道に乗り始める。やがて食事以外にも日用品などの物資が現地に届き、それらを保管する場所、管理や提供要領などの物流システムも安定してくるようになる。
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支援が始まって3ヶ月ほど経過すると、
医療に必要な技術や物資が届いたり、支援する人たちの入れ替わりがあったり、被災された方々が生命の危険にさらされる状況からは逃れられるようにはなってくる。
そこからさらに2ヶ月ほど経過したころ、
被災された方々から、支援する側と被災地の小学生たちとサッカー大会を開催したいとの要望を受けた。
支援やボランティアを行える場所というのは、学校や公園のグラウンド、商店街の一部など、人が集まりやすくてそれなりに広い場所である。同じ時間帯同じ場所で食事やお風呂の提供をしていると、被災地の方々との交流が増えてくる。互いのちょっとした世間話から「避難生活を送る子供たちが少しでも元気になれる機会の提供を」ということで、サッカー大会の本格的な要望に繋がったようだ。
被災によってココロも体も緊張状態にある子供たちにとって、
このような催しは良い気分転換になるだろう、とてもいい提案だと僕は思っていたのだが。
結局、このサッカー大会が開催されることはなかった。
当時の責任者に理由を尋ねると、
「被災地で支援をするということは、被災地のみなさんが自立しようとする活動の手助けをすることです。もし要望どおり、支援している我々が被災地の一部でサッカー大会を開催したら、参加した方々は、ココロも身体もリフレッシュされるでしょう。また、大会自体も楽しかったと良い口コミが広がり、怪我もなく無事に終われば、いい評判となるのは間違いありません。しかし、少し時が経てば、あそこでは子供たちとレクレーションもしてくれるのに、こちらの被災地ではそんな事はしてくれないという不満も出てくるようになります。その不満は、自立に向けた活動に取り組んでいる被災地のみなさんにとって不要なものです。また、一部でサッカー大会を開催したことにより、支援しているほかの方々に娯楽の提供を求めるようなきっかけを作ってしまうのも良くありません。あくまでも我々の目的は、自立に向けた支援をすること、それを忘れてはいけません。」
このような回答が返ってきた。
また、支援の引き際が大切なこと、助けたいが故にいつまでも現地に居座り、被災地の方々の自立の芽を積んでしまうことの危うさも指摘されていた。
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支援物資に片寄りが出たり一部供給過多になったりすると、
保管場所の都合上、物によっては受け入れられず、返品になることもあった。被災当初から時間が経過すると、必要な物は少しずつ変化していく。必要な物や事を提供するのは正しい善意の送り方だと思うけれど、それを継続している場合、相手のニーズに答えることも大切だし、切り替え時や引き際が最も難しい。特に引き際は、ライフラインや被災地の方々の復興状況を総合的に見た上で判断しなければならない。
《誰かを助けるとき、相手の力を奪うような助け方をしてしまうことがあります。こういう助け方はあまり良くありません。自立の芽を摘み、依存させてしまうからです。本当に助けたいのなら、相手に力を与えるような助け方をする必要があります。本当の優しさとは、いつでも手を差しのべることではないのです。》
こういった様々な理由から、
被災地の小学生たちと支援する側がサッカー大会をすることはなかったが、芸能人やアイドルの慰問の申し出については積極的に受け入れていた。芸能人やアイドルの存在は唯一無二であり、見る側見せる側と立場がはっきりしている分、一方的な催しとも言える。慰問を受ける側としては不平等を感じにくく、見る側全員に一気に元気を与えてくれるこのような慰問は受け入れやすいのだ。
被災地の小学生たちとサッカー大会を開催できないと判断されたとき、
発案者は「なぜダメなんだ」とかなり食い下がって来たけれど、支援する組織が大きければ大きいほど、その行動に良くも悪くも大きな影響を与えてしまう事、いつでも手を差しのべることが優しさではない事を理解してくれたと思う。
誰かを本当に助けたいと思ったとき、相手に力を与えるような助け方をしたいと思う。余裕があれば、助けることによってその人がどうなっていくかも想像してみたい。
それが本当の優しさになるだろうから。
豊かなココロで。
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