豊かなココロと卑屈な気持ち ~麗生🖤leopeolily

「ココロが豊かになる言葉」を解釈してみました。言葉1つ、考え方1つで癒されます。ココロ豊かに過ごしましょう。

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「本当に好きな人」を父と母の恋バナから学ぶ。 ~麗生🖤



「言葉1つ」「考え方1つ」でココロ豊かに過ごしましょう。

少し卑屈でごめんなさい_(_^_)_




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《本当に好きな人は、無理やり好きになろうとしたり、寂しさを紛らわすために付き合う人とは違う。その人は意識しなくても自分のココロの中にいて、ふと気づくと自分にとってなくてはならない人になっている。好きに理由はいらない。いつの間にか好きになっているもの。》

本当に好きな人を父と母の恋バナから学ぶ。~麗生(れお)
恋バナ

「朝起きたとき」に会いたいと思った人が、本当に好きな人だと思う。

と、先生に扮したイチローが、バラエティ番組で言っていた。

自分には今、寝ても覚めてもその人しか浮かばないと言うほど、恋焦がれる人物は存在しない。
社食で昼食中に、憧れていた異性が自分の向かい側に着席した時、食事が喉を通らなくなったという経験はある。同じテーブルの向かい側ではなく、もう1つ向こう側のテーブルの向かい側なのに。
確かに、その異性を社内で見かけたり声を聞いたりするとドキッとし、見かけたことを喜び、存在を意識していたので、自分はその時、本当にその異性のことを好きだったんだと思う。

自分の母は、5人兄弟の次女

として産まれた。稼業を手伝いながら小中と学校に通い、卒業後は洋裁学校に通っていた。昭和40年ころ、二十歳そこそこの娘が自動車学校に通い、免許をとらせてもらっていたのだから、田舎暮らしとはいえ、母の生活は豊かだったと思う。

幼少のころ、兄弟たちと遊んでいた母は、納屋の屋根から滑り落ちて目の上を切り、大ケガをしたことがある。その傷跡は眉の上にしっかり残っているものの、肌の色は白く、癖のない黒髪で、目鼻立ちもはっきりしていた。背丈は150cmを越える程度だったが、写真を見る限り自分の母は器量がよかったと思う。


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子供の頃からの自分の印象として、父と母の夫婦仲はあまりよくなかったと思う。何か決定的な問題があったかどうかわからないが、小学生だった自分が見ていても仲がいいとは思えなかった。友人が「うちの親、出掛けるときに手繋ぐんだ」「パパとママが一緒に風呂入ってる」など聞くと、我が家の状況との違いに驚いたものだ。

母は専業主婦だったが、和裁洋裁の技術を生かして内職していた。

友達はいたが、同じ環境や境遇の方たちが多かったので、あまり世間を知らなかったと思う。家の事はきちんとしてくれるし、お酒を飲めば少量でダメになる分、外に出て飲み歩くなんて事も一切なかった。そのわりに、負けず嫌いで頑固な一面もかなりあった。父は母と対照的に、仕事、趣味や地域のスポーツクラブなど積極的に参加し、おそらく無駄遣いもしていたのだろう。母の小言は、それに対する不満を多くを占めていたと思う。
母は、多くの時間を内職に使っていたので、自分と母が話をすることもほとんどなかった。母との交流が少なかった分、一緒に出掛けたり、母が人と話をして楽しそうに笑っている姿はとてもよく覚えている。

そんな静かな親子関係の中、「なんで父さんと結婚したの?」と聞いてしまった事がある。


「お母さん、本当は地元にすごく好きな人がいたのよ。」
「・・・」
「その人が他の人と結婚するって聞いた時はとてもショックだった。」
「・・・」


あー・・そうだったんですかー・・・汗
あーいやー、変なこと聞いてすんません・・・

不倫、浮気なんて不潔だわ、中学生で交際なんて何ませたこと言ってんのよ、という母から、恋バナのような話を聞くとは思っていなかったので、この一言に信憑性を感じ、「父さんとは仕方なく結婚したんだな」と、自分は勝手に母を悲劇のヒロインに仕立て、同情し、それ以上何も聞かなかった。


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それから数年たって家の荷物を整理していると、

母が若かりし頃、洋裁学校に通っていた時のノートが出てきた。いくつかの教材、使い古された教科書と共に、何冊も出てきた。その大学ノートを興味本意でパラパラめくっていると、専門的な図と丁寧に板書を写したであろうページの片隅に、父の名前が書かれているのを見つけた。父の名前をさん付けで書き、数回なぞって円で囲っている。
母をちらっと見てそのページを指で挟み、他のページを探索すると、父にまつわると思われる単語が違うところにも書かれていた。

洋裁学校での授業中、ボーッとしながら好きな人のことを考えていたんだろう。
母さんは父さんの事が好きだったのかな。仕方なく結婚した訳ではなさそうだ。

と確信したところで
「母さん、これ覚えてる?」と指で挟んだページを見せると、「ちょっと、何見つけてんの!」と焦りだした。

その時近くにいた父にもそれを見せると、

「父さんは、今でもこれを持ってるぞ」

と、自慢気にパスケースから小さい紙に書かれたメモを取り出した。

「父さんは、このメモもらったときに結婚しようと思ったんだよね~」

と無邪気に笑っている。
洋裁学校に通っていた頃の母から渡されたメモを今持っているということは、色々計算すると、父は30年近くそのメモを持ち歩いていたことになる。


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当時母は地方に住んでいた。

母と同い年の父は都心に居住し、すでに仕事をしていた。母の住む地域に出張する機会があり、仕事が終わったあと、父は同僚と地元の夏祭り出掛けたそうだ。そこで友達と夏祭りに来ていた母と出会ったらしい。それをきっかけに、何度か会うようになったそうだが、お互いの物理的距離は250㎞。当時自動車を持っていなかった父は、電車を使ったり、自動二輪車を飛ばして母に会いに来ていたそうだ。
当初、母的に「お祭りで話した程度の人が、堂々と自宅まで遊びにくるなんて図々しい。変わってる。」
と思っていたそうだが、父はそんなことお構いなしによく会いに行っていたらしい。

そうした関係がどれくらい続いたのかはわからないが、父が母に会いに行くのは、母の事が好きだったからだと思うし、こんな田舎まで自分に会いに来てくれる人を、母もいつの間にか好きになっていったんだと思う。
カタブツの母が授業中、ボーッとして学習ノートに父の名前を書くくらい、好きになったんだと思う。


ある日の週末、
父は電車を使って田舎に住む母に会いに来ていたそうだ。父が帰る時、電車のホームで見送りをする母が、電車のドアが閉まる瞬間に「後で見て」と言って父にメモを渡したそう。電車が走り出して母の姿が見えなくなった時、そのメモを見た。

「今すぐ〇〇さんの元に行きたい。  〇〇子より」

父はこれを見て、すぐに母との結婚を決めたそうだ。

母は、このメモを渡したあと、どんな気持ちでいたのだろう。「そのメモを読んだ〇〇さんがどんな気持ちになったか、私の気持ちに答えてくれるか、ひいてしまうか」色々なことを考えて想像し、父からの連絡を待っていたのではないかと思うと、母の健気なその気持ちを、また勝手に想像してしまった。今なら遠くにいても、まるで相対してるかのように顔を見ながら会話もできるし、文字やスタンプなどで気持ちを伝えられる。電車の中からでもすぐに、返事をすることもできる。しかし、昭和の時代は今のようなリアルタイムではない。逆にそのタイムラグが、お互い次に会うまでどんな言葉をかけようかどんな風に接したらいいのか、たくさんの事を考える時間を持つことができたとも言える。


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そういや父さん、

そのメモを30年も持ってるくらいなら、母さんをもっと大事にしてやれよ、と思うし、母さんはそんなに小言を言わんで下さいよ、もっと仲良くできたでしょ。と、心底思う。

思うけど、まぁいいか。

仕方なく結婚をしたわけではなかったと知って、自分はなんだかとホッとした。


自分の両親の恋バナで「本当に好きな人」「好きになる理由」に思いを馳せる時がくるとは思わなかった。

普段の生活に「好き」という感情が加われば、自分の周りに花が咲いたような、キラキラ光が差すような、そんな感覚が沸き起こると思う。自分にとって、「好き」という感情は、忘れていた贅沢かつ人間的高等な感情のような気がする。そして、一気に「ココロ豊か」になれる特効薬だとも思う。

「本当に好きな人」「本当に大切な人」がいるなら、

その人を大切にしてほしいし、あなたのその感情も大切に育んでほしいと思う。
今よりもっと「豊かなココロ」で毎日を過ごせると思う。




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