《遠くだからよく見えて、近すぎると余計な物まで見えてしまう。嫌なことが目についた時は、近すぎる場合がある。素的に素敵に見える距離を間違えないように。》
コンタクトレンズを利用している友人は、
自宅にいる時、コンタクトを使わず眼鏡をかけて過ごしているそうだ。左右どちらかの視力が0.1を切ると言っていたので、眼鏡をはずしてリビングにいると、掛け時計が何時をさしているかわからないし、そもそも時計の針さえぼんやりしか見えないと笑う。
それはかなり不便だろうと思うのだが、本人そうでもないらしい。「家の中の細かい小さなものまで見えすぎると、なんだか怖い」と言うのだ。
緑豊かな土地に居住していた頃、
自宅の窓からは標高500m程の山が見えていた。直線距離で約8km。季節によって山の色が変化していくのが見える。若々しい春の薄い色から夏にかけて緑色が増し、気温が上がると同時に深い緑色へと変化する。秋が近くなると紅葉の赤に染まり、冷え込む冬の山頂にはうっすら積もる雪で白くなる。どの季節もよく晴れた日には、8km先に見える山の様子をふんわり知ることができた。
そのころの勤務先は、
その山から3kmほど離れたところにあった。自宅から眺めるより、山の様子がもう少し詳しく見える。春から初夏にかけて咲くこぶしの白い花、八重桜の桃色、梅の濃いピンク色が山肌のどの部分に多く咲いているか、勤務先の窓から見ても区別がついた。山にかかる雲の位置と、空の水色がうまく調和する。視界に入るそれらの景色が、バランスよくキャンパスに収まっているようで気持ちが落ち着く。外回りをしながら、ちょうどいい具合のその山を見るのが好きだった。
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ある日、その山の麓にあるカフェで人を待っていた。
いつも眺めている山が目の前にある。カフェの2階の窓際に座って山の全体像を見ようとするのだが、顔を窓に近付けて目線をあげないと全体像が見えない。キャンパスに描くと2/3が山、といった具合だ。
季節は夏、きれいな緑の葉が重なり合って、風が吹くたび、それらの葉が擦れる音が聞こえる。時々枝から離れた葉が空間を舞って地面に落ちる。よく見ると、うっそうと茂った葉の奥の方に、折れて朽ちた木の幹が倒れて重なっている。以前この辺りを襲った台風の被害が、朽ちた幹を通して思い起こされた。
自分は、この山を眺めるとき、
3km離れた勤務先から眺めるのが1番好きだ。
8km離れた自宅からだと少し遠く、山の様子は見えるが感じることはできない。
麓から眺めると、草木や花の息吹を感じることはできるが全体像は見えない。その分、自然の生々しさを感じ、圧倒される。
視力の悪い友人が「見えすぎると怖い」という感覚がわかるような気がした。
まさに、人との距離も同じなのかもしれない。
仕事の付き合いなど、他人行儀に接していた人と仲良くなってプライベートでも付き合うようになると、お互い少し踏み込んだ話をするようになる。
そうすると、仕事以外でのその人の素の部分が見えるようになる。その人の素の部分を知って嬉しいと思うこともあれば、ギョッとすることもあるだろう。他人行儀なお付き合いだけでは知り得なかったその人と一歩踏み込んだお付き合いをすることによって、新たな一面、多面性を知ることになる。
もし、
近づいたお付き合いをすることで、「その人とはあまり合わないかもしれない、苦手だな」と思えば、もとの距離感に戻ればいいし、近づいたお付き合いが心地よいと思うなら、その心地よい距離を保てばいい。
特に自分に影響のない相手なら、自分が感じるいい距離を保つだけでいいけれど、自分に影響のある近しい相手なら、時々近くで見て本心を探ったり、お互いココロの交流をはかることも必要だと思う。
時には、「相手と自分の嫌なこと」に向き合って解決まで同じ時間を要することもあるだろう。遠くから眺めているだけでは信頼関係は築けないし「素的で素敵な距離」がどのくらいなのかわからない。
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仲間同士、恋人同士、親子関係から夫婦関係まで、人は無意識に相手と距離を保って生きている。その人との関係に違和感を感じているなら、その相手との距離の取り方が少し間違っているのだと思う。
「 嫌だな」
と思ったときは、ひとまず距離を多くとってみるといい。
◎遠くから眺めていると、時々近くに寄ってみたくなる。
◎関係性を深めたいなら、「素的で素敵に見える距離」を真剣に探ってみたらいい。
◎近寄って、相手のココロを知った上で自分なりの心地良い距離を保ってみる。
色々な距離、角度から、視野を広げて相手を見てみる。同じ場所、同じ距離から見ても、同じ側面しか見えないのだから。
結婚する前は両目を開き、結婚したら片目をつむる。
これもまた母が言っていた言葉。