豊かなココロと卑屈な気持ち ~麗生🖤leopeolily

「ココロが豊かになる言葉」を解釈してみました。言葉1つ、考え方1つで癒されます。ココロ豊かに過ごしましょう。

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自分は自分。他人は他人。自分磨きに目を向けよう。 ~麗生🖤



「言葉1つ」「考え方1つ」でココロ豊かに過ごしましょう。

少し卑屈でごめんなさい_(_^_)_




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《他人の事で悩むのはもうやめよう。どう足掻いたってどう説得したって他人は変わらないのだから。ただ時間がもったいない。》

他人に惑わされることなく、自分磨きをしましょう。~麗生(れお)
自分磨き

自分と他人

「あなた変わってるよね」
と言われた方からすると、あなたも充分変わってますよ、と思う。

お互いそう思ってるんだから、相手のために自分を変えようなどと思うわけもない。
違うからこそ惹かれ合うこともあろうが、そこは決して交わることはない。

「変わってる」部分は自分にはないからそう思うだけで、どう捉えようとその人の個性である。正当な道を踏み外していないなら、それぞれの「個性」は尊重したらいい。

「あなた変わってるよね」

などと言うこと自体、意味がなく不毛だ。
むしろ自分の頑固さ、小ささを露呈しているようなものだ。


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〇「運転してほしい」
〇「荷物をもってほしい」
〇「ごはんをつくってほしい」
〇「本を買ってきてほしい」


こういう類いの物理的な会話の中で、多少の摩擦が起きることはやむを得ない。聞き入れたとしてもそうでないにしても「わかった。」もしくは「うん、あー。はいはい。」程度で片付くはずだ。


● 「運転疲れた事を察してほしい
●「重い荷物は頼まなくても持ってほしい
●「おなかが減ってるとわかってほしい
●「本を読みたい気持ちをわかってほしい


こういう類いの「脳内希望」は、ほぼ言葉として口に出されることはない。

「察してくれ」「なんでわからないのか」

という気持ちが先行して、相手が自分の思い通りにならない事に悶々としているのだ。

言葉にしても伝わらない、伝わっても少し違う感覚で伝わる事も多いのに、言葉で表現することもせず、態度や雰囲気だけで自分の気持ちを理解してもらおうなんて、相手を対等な人と思って接していない。
見下しているし、倫理観に欠けている。


「そちらの車線に入りたいので、ウィンカー出します、入れてもらえませんか?」

ではなく、ウィンカーも上げずに無理矢理車線変更しようとする無謀な運転手のようだ。

もしくは、

入りたい車線を走っている運転手から
「どうぞどうぞ、お入りください」
と言われるまでウィンカーも出さずに黙って待ってるか。

せめて意思表示はしないと、相手に伝わらない。


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「こうしてほしい」「気付いてほしい」

と必死になるのは時間がもったいない。

そして

「他人を変える、変えたい」という気持ちは、相手を自分の思い通りに動かしたいという幼稚な願望、それ以外の何ものでもない。

「私の気持ちを察し、それに基づいて行動できる相手」


求めてはいけない。
そんな人は存在しない。


そんな人を求めるよりも、


◆自分の存在を認め、自分の考えに自信を持てばいい。
人によって話すことを変えてもいいし、態度を変えたっていい。
自分が無理なくそのひとときを楽しむために、自分を柔軟に変化させればいい。
自分の中のウィンカーを使って、都合よく方向を切り替えていけばいいのだ。


人との関係性も柔和に保てるし、自分のコミュニケーション能力はグングン上がっていく。


無駄に他人を説得するくらいなら、豊かなココロを育てる努力をした方が、人生数倍楽しくなる。

自分は自分。他人は他人。自分磨きに目を向けよう。



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