打ち負かすことは一瞬の幸せ。
許すことは一生の幸せ。
ムカつく相手を物理的に攻撃したとき、ひるむ相手を見て一瞬「打ち負かした」気になる。
相手が痛そうに倒れる様子を見て「打ち負かしたぜ」と一瞬、幸せを感じるかもしれない。
そう、あくまでも一瞬。
そのあと、攻撃した方はその場に残ろうが、そこから逃走しようが、攻撃した人(=犯罪者)は長きに渡って制裁を受けることになる。
加害者である犯罪者は、法にのっとって罰を受ければいい。そこに情けは必要ない。
しかし残念な事に、相手を打ち負かすという「一瞬の幸せ」を得るために犯罪を犯すと、加害者の近しい人達までも社会的制裁を受けることになる。
加害者の家族構成、自宅、実家はあっという間に突き止められ、SNSによって拡散され、まったく罪のない家族も「犯罪者」扱いされる。家族が勤務先から追われ、収入も減る。何度も転居を繰り返し、素性を隠して生きていかなければならない。収入がなければ転居はおろか、日々の生活さえ満足にできない。家族に若い人がいればその人の将来にも影響が出る。
罪のない加害者家族に対する支援もあるが、被害者家族の苦しみ、悲しみに比べれば、加害者家族を支援することに否定的な意見も多い。加害者家族に対する人権侵害だとわかっていても、世間の目、認識は「犯罪者」と「犯罪者の家族」はイコールなのだ。
相手を打ち負かそうという過剰な攻撃は、身を滅ぼし、自分だけでなく周囲も不幸に陥れる。
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打ち負かそうという気持ちがある時は、自分が自分以外の人に支配され、振り回されている時だ。
自分が自分以外の人に支配されるなんてまっぴらごめん。打ち負かそうと思わずに、自分中心に物事を捉えてみればいいだけだ。
●今、自分のできることを一生懸命やる。
●比べるなら今より過去の自分
自分中心に物事を捉えればいいのだから
●「打ち負かしたい」相手を無理に「許す」必要もない。
誰かを打ち負かそうと躍起になっていたことが達成されると、一瞬幸せを感じるかもしれないが、その幸せが儚いものだと気づくだろう。人を打ち負かした時に感じる幸せはとても儚く、長くは続かない。
自分のことを一生懸命やった結果、目的が達成されたなら、努力の結果を心から喜べるようになる。努力した自分を労うこともできるし、自分の自信になるはずだ。
「相手を打ち負かす」ことに幸せを感じるのではなく、「自分が一生懸命取り組む」こと、その過程と結果に幸せを感じるようになりたい。
自分の「打ち負かしたい」という攻撃的な闘争心があるならば、その闘争心を自分の中の弱さに向けてほしい。そうしていたら、打ち負かしたい相手の事など、どうでもよくなる。
どうせなら、相手の戦略やナイスプレイを認め、見習おうと思えるくらいの「豊かなココロ」を持っていたい。
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